春の日本滞在記1

Japanese food Yutaka Spring Sales

普段着とパジャマの境がどんどん曖昧になっているちこちゃんです。

前の投稿は 2月29日でしたか。のんきなレストランレビューでしたねぇ…

その後実はちょっと日本に帰っていました。そのことをお話していいですかね。非常に個人的な記録となり、記憶もどんどん薄くなる中、事実と反することもあろうかと思います。どうぞご承知おきくださいませ。

それは、まだ3月の半ば頃、英国では政府が「集団免疫を付ける」ため、学校閉鎖や外出自粛等の措置は取らないと発表したころです。そんなこともありましたよねぇ…

土曜の朝のこと、京都の姉から連絡がありました。高齢の父の具合がよくないと(感染症とは無関係)。寺の住職である父は、持病はありましたが、その直前までお彼岸の準備等の寺務をこなしていたとのこと、重篤というわけでもなさそうです。でも、うちの姉は、わたしを心配させないように、よっぽどのことがない限り、ネガティブトピックは事後報告の人。今なら仕事の都合もつくし、顔も見たいしということで、できるだけ早い飛行機で日本に戻ることにしました。

すでに休校措置等が取られていた日本は、行ってはいけない国でした。楽しみにしていた春休みの帰省を涙をのんであきらめた方もたくさんおられたと思います。でもその時点でコロ助は、英国でも非情にその牙をむき始めていました。「英国の都市封鎖の可能性も踏まえ、ヒースローに帰ってきても入れてもらえなくなる可能性もある」とびびらし、入国審査で住民であることを示す書類を持っていけとアドバイスしてくれるふわりメンバーもいました。


水曜なら大阪直行便があったんだけど、一日二日で後悔するようなことがあっても…と思って月曜のヘルシンキ経由のFinnair(関空便はBAとJALのコードシェア)に乗りました。降り立ったヘルシンキ空港はガラガラで、開いている店も少なく、ムーミンカフェも閉店状態でした。そこに姉からLINEが入り、父がICU(集中治療室)に入ったとのこと。え?なにそれ?でも、意識はいたってしっかりしており、姉が面会に来た時には本人は家に帰る気満々だったそう。それでもヘルシンキでの乗り換えは4時間以上あり、その後のフライトは10時間で、不安が募ります。開いていたレストランで食事をとり、グラスワインの大をあおって気を紛らわせました。



翌朝、関西空港に着きました。体調を聞かれることもなく、問題なく検疫を通り、自動改札(?)を通って入国できました(その順番は逆かも?)。wifi がつながるとまた姉からLINEが。

「お父さんの様子が急変した。タクシーで病院に来て!」

関空から京都市内までって運賃どんだけかかるん?とかそんなことを考えている場合ではありません。せっかちな性格の父でしたが、こんな時まで急いでどうすんのよ。

父は待っていてくれました。 わたしの声を聞いて目を開けてくれました。おじいちゃんを元気づけようと孫娘が作った、木の絵と日本語のメッセージの入ったカードを見せました。その内容を補聴器をした耳元で読んであげたら、その目に涙がにじんだようです。そしてわたしは父に感謝し、身勝手な娘であったことを謝ることができました。その日の夕刻、父は安らかに息を引き取り、87年の生涯を閉じました。



父が亡くなってから初七日までは、怒涛の一週間でした。毎夕、自宅の寺で法要があり、客があり、お彼岸の真っただ中であったことも重なって、家族は悲しみに浸っている暇もありません。テレビを見ている暇もありません。

父の職業上、家族葬とはいかず、弔事は伝統的な仏事の決まりにのっとって行われます。でも世間はコロナ禍の真っ只中、大勢の人がお参りに来てくださることになる告別式等をどのように行うか、悩ましいところです。とりあえず密葬にして本葬は来年?告知はしない?会場はどうする等々多数の検討事項がありました。

ところが、そうこうしているうちに、京都では「集会の自粛が緩和」されたと新聞で報道されました。結果、通常よりは小規模ながらも、通夜、告別式は自宅の本堂で滞りなく執り行うことができました。(ほぼ一か月が過ぎた今のところ、そこからクラスターが発生したという情報は入ってきておりません。ほっ)

告別式と同日になった初七日を過ぎて、次の逮夜まで少し寺が静かになり、同居の姉や弟(跡継ぎ)たちもそれぞれの仕事に戻っていきました。 わたしはもともと2週間の滞在を予定していたので、今や未亡人となった84才の母と一週間、じっくり時間を過ごすことになりました。

この未亡人がまた曲者なんです。ある朝、付箋に何やら書き込もうとしているので、何をしているのか聞いてみたら、「友達の電話番号書いて、携帯に貼っとこ思て。覚えられへんから」
「おいおい、さっそく遊ぶ相談かい…」と、 わたしは慣れないガラケーを操作して、電話番号帳の出し方を思い出させてあげました。

また、別の日のことです。 わたしの父はいわゆる虎キチ(阪神タイガースの応援に生涯をかけてる人)で、京都新聞の他にスポニチをとっていました。 わたしは未亡人に言いました。「もうお父さんいーひんから、スポニチも断る?」
彼女は「そうやね、そうするわ、もったいないしね」と言いながら、その日のスポニチを手に取ってページを繰り、中ほどの、男性専用ページに至りました。「うわー、この人、美しいからだしてはるわー。そやけど、こんな新聞に載ったら、危ないんと違うやろか。あとつけられたりしはるえ。」とグラビアのモデルさんがストーカーの餌食にならないか、心の底から心配していました。

そして、ときどき、脈絡なく、「わたし、ぼけんように頑張る。おじいちゃんいなくなって世話する人がなくなったけど、ちゃんと毎日ご飯作って、人にも会いにいくねん」とか、
「おじいちゃんに悪かったと思ってるねん。怒ったとき無視したりして、いじわるしてなぁ…」とか言い出して目に涙を浮かべるのです。それも毎日。何度も。
また、台所で わたしが用事をしているとき、なんか歌声が聞こえると思ったら、本堂の父の祭壇の前に座って、自作の歌を熱唱したりしています。

昔っから天然ボケを絵に描いたようなちこちゃんのママ(どっちが?ちこちゃんが?お母さんが?どっちもや!(笑))は、知らない人から見たら「このおばあさん、だいぶ危ないで」と思われるかもしれませんが、もともとそういう人なので、たぶん、これからもずっとこの調子で大丈夫だと思います。本人にもそう言ってあげました。何度も。


未亡人の話を入れたら長くなってしまったので、今日のところはこの辺で。明日も続きます。


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About the Author: ちこちゃん

南ロンドンに住んでもう20年が過ぎてしまいました。来た当初に経験した愕然としたこと、怒りに髪の毛が天を突いたことなどがすっかり標準化してしまった今日この頃。日本人としてのアイデンティティを失わないよう頑張っています。

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3 Comments

  1. Tomo 22nd April 2020 at 12:06 pm - Reply

    私も2月の後半に突然父が倒れ急遽日本に帰国しました。まだコロナの状況はそのうち収まるだろう、な感じでした。
    私は父の死に目にあえずとても残念でしたが、チコちゃんさんは会えたそうで自分のことのように嬉しいです。だんだんコロナの状況も悪くなり、飛行機もキャンセルになりチケットを買い直したりと大変でしたがなんとかイギリスに4月の頭に戻ってこれました。同じ時期に同じ状況の方がいたと知り、不思議な気持ちです。
    コロナに気をつけつつ頑張りましょう!
    長くなってすいません。
    このお話をシェアしていただきありがとうございます◎

    • ちこちゃん 22nd April 2020 at 3:47 pm - Reply

      Tomoさん、こちらの方こそお読みいただき、そしてコメントをありがとうございます。同様の経験をされたとのこと、わたしもびっくりです。間に合わなかったことは残念とおっしゃっていますが、それまでにたくさんのよい思い出を共有されたことと思います。不思議といいことしか、思い出しませんよね。このあとも、イギリスに戻るまでの話を続けようと思っていますので、しばらくお付き合いください。
      この事態が終わるまで、ほんとにがんばりましょうね。仲間を一人見つけた気がします!

      • TOMo 22nd April 2020 at 4:47 pm - Reply

        まさに!まさにそれです!仲間を見つけた感じです!嬉しいです◎
        続き楽しみにしています。

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